JuniperBerry’s diary

日々感じたことや ふと思い出した事を 書いてます

ヨーロッパ横断 シベリア鉄道で日本を目指す!その5  ハンガリーからチェコ、そしてポーランド

ベルリンからハンガリーブダペスト そして チェコプラハ

久しぶりに名所旧跡を散策し 観光らしい観光を楽しんだ

 

ブダペストは現地の旅行ツアーに参加して 

アメリカ人の陽気さとお喋りパワーに圧倒され

 

プラハでは ミュシャ(ムーハ)のステンドグラスにため息をつき

王宮や黄金の小道を のんびり散歩したり お店をひやかしたり

日の暮れていくカレル橋は まるでファンタジーの世界にいるようで

銅像が今にも動き出しそうだった

 

ところで 貧乏旅行のため ホテル代をケチって

移動にはできるだけ夜行列車を使ったのだが

 

ブダペストからプラハは激混みで

寝ることができないばかりか

コンパートメントに予約客以外まで流れ込んでくる始末

ショルダーバッグをしっかり抱えて座ったまま 

夜が明けるのを待った

 

その一方で

プラハからポーランドへの電車はガラガラに空いていて

コンパートメントに私一人だった

その頃の東ヨーロッパを旅行する際は

「盗難に注意 荷物から目を離さず 靴は脱がない!」 と聞いていた

 

荷物は勿論 靴を盗られたら困るので

靴を履いたまま座席に横になった

チケットコントロールに来た車掌さんが

身振り手振りを使って「靴を脱いで」と注意してくる

けれどこちらは、靴なしで旅行するかどうかの瀬戸際

(私の足のサイズは22.5cm

万が一盗られたら、サイズ探しで 一苦労するのが目に見える)

 

理解できないふりをして、(座面に足は乗っけずに)履き続けた

仕方のないやつ、と諦めたのか 

防犯のためもあったのか車掌さんはそれ以降も 

ちょくちょくコンパートメントを覗いてくれたけれど

しっかりとはいた靴は見ないふりをしてくれた

(わからないふりして ごめんなさい)

 

そんなふうにして

プラハからポーランドクラクフに移動した

クラクフは かつてポーランドの王都だった 美しい長閑な町で 

世界文化遺産(最初に指定された12地域のうちの1つらしい)らしいけれど

この街の名前を知っている日本人は それほど多くないかもしれない

 

だけど アウシュビッツの名はほぼ全員が知っていると思う

クラクフアウシュビッツの玄関口

 

その頃 (私の情報収集能力が未熟なのかもしれないけれど)

アウシュビッツを訪れるには 

クラクフからタクシーで往復するしかなかった

 

クラクフの駅でつかまえたタクシーは

農村地帯の一本道をずっと走る

 

タクシーは あの有名な鉄の門の前で止まり

私は運転手に迎えに来て欲しい時間を伝えた

 

訪れている人は少なかった

片手で数えられる位 

時々 部屋に入る時に一緒になったり

すれ違ったりするけれど

誰もほとんど声を発しない 

 

訪れている人びとを含め

まるでインスタレーションの中にいるようだった

 

高校の修学旅行は

グループ毎に行き先を決めることができたけれど

広島の原爆資料館だけは ルートに入れなければならなかった

 

友達と一緒に見た 原爆資料館の展示は

あまりにも生々しくて、凄惨で、うなされそうに恐ろしく

カラー写真が多くあったわけでもないのに

内部が色の洪水に思えた

呻き声や慟哭が充満しているようで

苦しくて座りこんでしまいそうになった

 

アウシュビッツはその対極だった

モノクロの世界 不自然なほどの冷たい静けさ

 

ボルタンスキーの作品に似てる と思った

(本当は作品の方が似ているのだけど)

ただ、ボルタンスキーのインスタレーションには

生命の余韻や 感情 想い のようなものが感じられるけれど

こちらは 抜け殻を見ているようだった

 

外に出た

頭の上の空は どんよりと重苦く感じるほどに 暗い色をした

雲に覆われていたような記憶があるけれど

それが 本当に自分の記憶の中にあるものなのか 

それとも どこかで見た写真とごっちゃになっているのかも

定かではない